清水観音堂は、寛永8(1631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。
天海大僧正は寛永2(1625)年に、二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって「東叡山寛永寺」を開きました。これは、比叡山が京都御所の鬼門(艮=東北)を守るという思想をそのまま江戸に導入することを意味し、江戸城の鬼門の守りを意図したのです。そして比叡山や京都の有名寺院になぞらえた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺(きよみずでら)を見立てたお堂です。
清水観音堂は、京都の清水寺の義乗院春海上人から、同寺安置の千手観世音菩薩像が天海大僧正に奉納されたことにちなみ、清水寺と同じ舞台作りで、初めは上野公園内の「擂鉢(すりばち)山」に建てられました。しかし元禄初期、今の噴水広場の地に、寛永寺総本堂の根本中堂建設が決まると、その工事に伴って元禄7(1694)年9月に現在地に移築されました。上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物です。
平成2年12月から文化財保存修理が行われ、平成8(1996)年10月に竣工、元禄移築時の面影を再現するに至る、国指定重要文化財です。




京都清水寺からご遷座された秘仏ご本尊・千手観世音菩薩は、平安時代の比叡山の高僧・恵心僧都の作と伝えられています。秘仏ご本尊には合掌したお手・禅定印を結ぶお手の他に小さなお手が40本あり、それぞれの小さなお手が、仏教で考えるあらゆる世界の生きとし生けるもののすべてに、慈悲の手をさしのべるお姿を表しています。
秘仏ご本尊は『平家物語』に述べられる、主馬判官(しゅめのほうがん)平盛久(たいらのもりひさ)の伝説があります。盛久は千手観音を清水寺に奉納し、千日参詣の祈願を続けていました。しかし源平の合戦で敗れた盛久は、鎌倉由比ヶ浜で斬首されそうになります。その際に刀が折れて盛久の命が助かり、また北条政子の夢に清水寺の高僧が現れて盛久の赦免を願ったので、驚いた源頼朝は直ちに盛久を許したのです。京都に戻った盛久が清水寺に参詣すると、盛久が斬首されそうになった際に観音像が倒れたという話を聞きます。こうして観音像に護られたことに気づいた盛久は感涙にむせんだ、という物語です。
この奇瑞が午の年・午の日・午の刻に起きたことから、ご開帳は年に1日、2月の「初午(はつうま)法楽」の日に行う縁起となっているのです。




右に祀られる脇尊の仏さまは「子育て観音」で、子授け・安産・子育ての観音さまとして多くの信仰を集めています。この観音さまに祈って子宝を授かった両親が、その無事な成長を願って奉納した身代り人形が、ご宝前に多数供えられています。この人形の供養が、こんにちではかわいがってきた人形に感謝する、人形供養となっています。
人形供養は毎年9月25日14時から行われます。




本堂裏手には「秋色桜(しゅうしきざくら)」という、近くの井戸とともに江戸時代から知られる桜があります。
江戸時代に、日本橋の菓子屋のまだ13歳の娘が、花見の折に「井戸はたの 桜あぶなし 酒の酔い」と一句したためて桜の枝に吊して帰ったところ、当時の寛永寺住職であった輪王寺宮のお褒めにあずかったそうです。その娘は成長すると宝井其角門下の俳人となり、菊后亭秋色と号しました。それを記念して「秋色桜」と名付けられた桜は、現在およそ九代目にあたると言われています。




開催日行事名開催場所
毎月17日 午前10時ご縁日法要(本尊:千手観音)清水観音堂
2月 初午ノ日 午前10時・午後2時大般若経転読(秘仏本尊御開扉)清水観音堂
9月25日 午後2時人形供養大祭清水観音堂




清水観音堂へお越しの方は


開門時間・閉門時間 : 午前9時〜午後5時